ベソブログ

日本人として本当に知って欲しい事、考えて欲しい事を伝えるブログ 歴史・政治・思想・音楽・芸術・文学・教育・経済・・・ジャンルなんて関係なし。作家BESOが日々感じ、考える日本人に伝えたい事を伝える。やってるかやってないかはバイブス次第

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ユダヤ人とユダヤ国

言い方はちょっと不思議やけど世界には日本が承認する国が194カ国ある。そして日本で195カ国。ちなみに国連に所属している国家から国家として承認されている国家の中で、日本が承認していない国は10カ国ほどある。例えば北朝鮮や中華民国(台湾)にパレスチナ。

世界にはこんなに多くの国が有る中での一つの日本。別に順位を競って1位の国を目指すためにみんな生きている訳ではないと思うけど何故か競ってる国々。もちろん国によって環境・人種・宗教・文化が大きく違ったり似ている所があったり。

ユダヤ人とよく口にするのに、ユダヤ国という国は無い。ユダヤ人とは現代では主にユダヤ教徒の事を指し血族的な意味合いでの人種も多様である。また何人でもユダヤ教に改宗すればユダヤ人となる事が出来る。つまりユダヤ国ユダヤ人ではなく、世界各地にユダヤ人がいる。つまり日本人が思う日本人ではなく、ユダヤ教を信じる人々がユダヤ人である。

そのユダヤ人にとって最も大切な書物とは「旧約聖書」である。日本人に取って「旧約聖書」と「新約聖書」もどっちもただの「聖書」である。誰が書いたのかも何が書かれているかも特に気にしないし、キリストが書いたんじゃないの?と思う人も多いかもしれない。これを詳しく書き出すと何ページあっても足りないので簡単に。

ユダヤ人を知るということは「聖書」を理解することであると言われているぐらいその根底の理念は深い。聖書をヘブライ語で書かれているものを「旧約」ギリシャ語で書かれているものを「新約」と呼ぶ。そしてユダヤ人は「旧約聖書」こそが唯一の聖典であり、「新約聖書」を聖書とは呼ばない。その「旧約」は1000年以上にわたって書かれているとされ筆者も時期も特定できない。そして西暦90年頃イスラエル人学者によって聖書選定の会議を行い、ヘブライ語で書かれた39の書を「旧約聖書」と定めたとされている。それは大きく「律法書」「預言書」そして「諸書」(「詩編」「歴代誌」からなる)に分けられる。

聖書に書かれている大筋は神の本質についてである。『私は熱情の神である。その神である私を拒む者はその罪を三代・四代末の子孫にまで問うが、私を愛し、戒めを守る者は幾先代にも及び慈しみを与える。』その私を拒むか?それとも愛するか?という内容。そこには二者択一の愛するか拒むかの答えしか無い。その答えとして神と契約をするのが聖書を遵守するという事なのだ。

「旧約」での旧い契約は紀元前1250年頃エジプトから民族的脱出をしたイスラエル民族にシナイ山で唯一の神ヤハウェと交わした契約であり、他の神を信じる事は禁じられている。「新約」は1世紀初頭にパレスチナで宣教したイエスの新しい契約。ユダヤ教の旧約的な儀礼や律法を否定し、神の愛や神そのものを心の中で信じ、隣人へ働きかける。

つまり、唯一神ヤハウェへの愛を誓うために食事に関する儀礼的な律法や安息日などを「旧約」通りに遵守するユダヤ教。それに対し、神への愛さえ有ればそういった諸々の堅苦しいものはいらない、と開き直り新しい契約を結ぶ「新約」を導き出したのがキリスト教である。しかし、元々はイエスも「旧約」を持ち布教していたとされその中で彼が新しい考え方や教えを生み出したのだ。


ここまで聖書についておそらくは簡単に説明した。聖書を研究している多くのユダヤ教とキリスト教徒からは指摘の嵐が起きそうだが、中見利男 著 「面白い程よくわかるユダヤ世界の全て」から抜粋させてもらった。



続きはユダヤ人と現代

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悪と善

悪と善。

悪魔と天使。

地獄と天国。

前回の陰と陽陰と陽からの続き。

何を持って悪と言い、善と言うのか。もちろんいろんな人の立場や見方、もしくは一般に共通した見方から言える概念。

でも今回一番言いたいのは何が悪と善を生み出したのか?

全ての物事は陰と陽のバランスで成り立っているという話からすると、全ての物事は悪と善のバランスで成り立っているという事になるかもしれない。

しかし、そうではない。悪人がいるから善人がいる。悪い事が起きるから良い事が起きる。というのでは、戦争が起きるから幸せがある。という話になってしまう。


悪と善について深く考えた一人の人物がいた。

『その人物は哲学者と言われていたが、捉えにくい抽象的な事柄に付いて言葉で論理を展開する人ではなかった。彼は当時のキリスト教義をあの世的な教義だと批判し、この世における真理、善、道徳こそ大切だと強く訴えた。つまり今生きている人のための哲学を打ち出した。

ニヒリズムを批判するこの哲学者。ニヒルとは日本語で言う虚無つまり何も無いという意味でニヒリズムは虚無主義と日本語では訳される。絶対価値や真理など無いというのがニヒリズムであり彼はこれを否定していた。そして生きる人々は自分の人生に何か価値や真理を追い求める生き物だと言った。

それが21世紀の現代では金銭と利潤である。そして彼の生きた19世紀までの西欧での絶対価値と真理はキリスト教道徳であった。しかし、彼はキリスト教道徳はありもしない価値を信じ込ませたり、神やあの世といったあいまいなものを通じて道徳を押し求める宗教であると解釈した。そして彼は現代のこの金銭と利潤の追求もニヒリズムから逃げる為の新しいニヒリズムだと批判していた。

つまり彼が言いたかったのは人に押し付けられた道徳や、周りとの幸せを比べるために自分の価値を追求したりするのではなく、自分の生きている世の中で人間としての道徳をみつけていく事が大切だという事である。』


  引用:超訳 ニーチェの言葉  フリードリヒ・ニーチェ 書 白鳥春彦 訳

とかの有名な「ニーチェ」は語っている。

これが彼の根本的な考え方である彼は、悪と善がこのキリスト教の布教とともに大きく変わったと言っている。

そもそも、上流階級の貴族や王族が下々の下層者や奴隷に対して持つ嫌悪感が悪という概念の始まりとされていた。逆に善は生まれた身分や権力的な力を肯定する言葉として使われていた。

しかし、キリスト教の布教により他の人達への行いである「利他的な行い」が善であるとし、「利己的な行い」を悪とした。キリスト教を広めようとしたユダヤ人は当時のローマ人にルサンチマンを抱いていた。ルサンチマンとはフランス語で、力の無い者が有る者に対して持つ恨み妬みや憤りの事である。

支配者層であるローマ人の自分の好き勝手を肯定的に生きるローマ人を悪とし、支配されながらも健気に無欲に生きるユダヤ人を善としたのだ。そして強い者は悪く、弱い私は善いとした歪んだ道徳観念を展開して行った。これこそがニーチェの批判する欲望を否定し自分の生を楽しまない事を善しとするキリスト教義的道徳だった。


つまり、今世間で言われてる悪と善についての多くは当時の虐げられていたユダヤ人が持ってた歪んだ道徳心をキリスト教が広まる事によって広まった考え方であるとニーチェは考えた。


悪い事・善い事なんて言うのはその立場や考え方でガラッと変わる。だからそれを決めつける事はしない方がいいのである。夜が悪いのでもなく贅沢が悪いのでも無いように、全ては悪と善なんかには縛られない。ただ、そこにあるのは裏と表だけが存在し、陰と陽がバランスを取ってるだけなんじゃないだろうか。。。

陰と陽

コインは裏と表があって1枚のコインである。
コインには裏だけがあるんでも無く表だけがあるんでも無い。そしてそこに悪と善は無い。あるのは裏と表っていう概念だけである。その裏と表っていうのも便宜上人がそう読んでるだけ。

これは全ての事に言える事であって、人間にも前と背中がある。どっちがいい悪いじゃなくてただ後ろ前なだけ。全ての物や生き物に当然ある。無いとすれば水や空気とか形の決まって無い自然物ぐらい。

今のは目に見える物の話。今度は目に見えない物の話。

よく言われるのが、悪い人良い人・悪い事・良い事。人を助ける事は良い事で、人を傷つける事は悪い事。これに異論を唱える人はまずおらん。確かにと俺も思う。でも今回はその問題にこだわるよりそれを一回取っ払って一つ外枠について考えたいと思う。

そして出て来るのが陰と陽。さらに善と悪は無いっていう考え方。陰と陽は全ての物事に通じる考え方でいろんな場面に出て来る。化学にも生物にも医学にも数学にも経済にも宗教にも何でも出て来る考え方。

身近な所で言う月と太陽。夜と昼。陰と陽のバランスが取れる事によって自然の調和がとれる。ずっと昼やった生物も植物も生きられへん。逆にずっと夜でも同じ。そう考えると日本は素晴らしく陰と陽のバランスの取れた国。
春夏秋冬がキレイに巡って春分秋分の日は一日が半分ずつ太陽が昇る。

元々は天候と関係する言葉として生まれてそこから他の分野の考え方にも派生して行った。

日本には昔陰陽師呼ばれる人達が活躍してた。残念ながら(?)明治政府が制度を廃止して以来陰陽師という職業は無くなった。中国の周王朝時代に考え方が完成されたと言われそこから日本にも渡って来た。推古天皇・聖徳太子の理解によって日本に普及したとされ、冠位十二階にも色濃くその考えが表れている。

中国では陰陽説と五行説(木・火・土・金・水)の考え方をミックスさせた陰陽五行思想というのが一つの考え方で完成し、十干十二支(五行にそれぞれ陰と陽、干支の十二支)や暦が生まれた。

それを日本にも取り入れそれを国家での学問とし自然の観察や占いにも応用させ日本の陰陽道を築き上げて来た。日本には古来からの神道がありそれと相互に発展して行き占術・呪術・風水術の要素も取り込み日本独自の陰陽道が展開されて行った。

そして有名な安倍晴明などの陰陽師が誕生して行く。

だいぶ脱線したけど何が言いたいかって、要は全ての物事は陰と陽で成り立ってるっていう考え方が日本にはあるっていう事。それが月と太陽でありコインの裏と表。

人にも動物にも植物にも陰と陽があってそれぞれがバランスをとって自然の調和がとれてるって言う事。そこに悪と善は無くただ、白色と黒色があるだけ。のイメージ。

そこに横入りして出て来た悪と善。元々そういう考え方もあったかも知らんけど現代のみんなのイメージの悪と善は一つの背景が隠れてると言われてる。

その背景については長いから悪と善で。

V for Vendetta

ユートピア

理想郷と呼ばれる世界。トマス・モアという作家が「ユートピア」という小説で作り出した言葉。牧人の楽園と呼ばれるアルケイディアとは違い自然的ではなく、人工的な社会性に滞りが無い完璧な社会主義国家のような世界。

ディストピア

ユートピアの対義語。独裁政治であり、人々の自由はその独裁によって制限されている。言論の自由や幸せを追求するような権利は無く、ただただ独裁者の制限に支配されている世界。

多くの小説や映画などの世界観にこの二つの考え方が大きな意味を持つ事がある。今回のタイトルの作品はその中でディストピアの代表作。

「V for Vendetta」

第三次世界大戦でアメリカを撃破したイングランドは崩壊したアメリカに変わり世界の実権を握る。そしてイングランドは議長と呼ばれる武力の独裁国家となる。

深夜0次を過ぎると外出は禁止。政治批判の表現は禁止。テレビ等のメディアの占有。何か違反すれば裁判ではなくすぐに拘束される。といった超支配下に置かれたイングランドの地に謎の仮面の男が現れる。

その仮面の男は、1605年にイングランドで起きた火薬陰謀事件の首謀者として拷問を受けた末残虐な死刑にあったガイ・フォークスという歴史上の人物の仮面をはめて深夜0時過ぎ外出禁止の罪で軍事警察に追われている女をどこからとも無く助ける。

そしてその夜11/5になるとロンドンの裁判所を爆破。爆破とともに大きな花火を打ち上げ夜空に大きなVを描く。Vとは復讐のVendettaの頭文字でありこれは彼(V)の復讐の幕開けと語る。

さらにVはその日の午後テレビ局をハイジャック。独裁者の管理下にあったテレビ局で自らのテープを全国に流し、来年の11/5に今度は議事堂を爆破すると宣言する。その時にはこの不信感に塊の今の独裁に異論のある人は議事堂に是非集結せよと言う。

物語は彼の背景とその女の関係を辿りながら1年後に。そこには一つの復讐の終わりと次世代へのバトンタッチがあった。


超独裁ではない日本。しかし果たして本当に支配されていないのか?そんな事を深く考えさせられる映画。そして立ち上がり、闇に紛れた支配者へ挑む方法を導いたVが実際の現代社会にも大きな波紋を起こしている。

anonymous(アノニマス)と自らを呼ぶ匿名集団が生まれた。彼らは政治的不信感に対し真っ向から反対運動を起こす。その運動の際にその仮面をかぶり匿名性を守る。暗殺や幽閉など国家のパワーに対する防御としての匿名であり、また皆の意見であるという表現の一つ。

ウィキリークスのジュリア・サンジ等もこの仮面を抵抗のシンボルとして使い、世界的に「抵抗と匿名の国際的シンボル」として定着してきている。

実際日本にもアノニマスジャパンというものがあり、その活動を日本全国で行っている。

ユートピアとディストピア。全てにおいて裏と表があり陰と陽がある。良い悪い善と悪ではなくただの2面性である。何かが良い、何かが悪いと決めつけると何か大事な事を見失ってしまう。

「時代」と「本物」

あの時はよかったなー。時代がよかったなー。
なんていう事を聞く事も有れば
逆に今の時代の子はかわいそうやとかいろいろある。

好きなアーティストのRHYMESETRの「GOOD OLD DAYS」の始まりはこんな感じ

 もう2度とは来ねえんだろうなあんな時代は
 まあわかりっこねえんだろうなアンタ達みたいな
 ハナから恵まれ過ぎちゃってる若い世代だと
 当時みたいな熱気は、やっぱ取り戻せねーんだろうな

        ・
        ・
        ・

結論から言うと今の時代、特に日本は恵まれてる。
明日の食べ物が無くなる事は無く、
今日泊まる家が無い、
なんて事はそうそう無い。
ホームレスやネカフェ難民なんていうのも
本気でそうならない努力をすれば何か
別の方法があったであろうと思う。

ネットが普及して図書館で調べ物をする事も無く
知りたい情報をすぐ手に入れられる。
行きたい所にも物理的にはほぼ行ける

逆に恵まれ過ぎて本物が生まれない。
と言う、ビートたけし

たけしの本で「超思考」っていう本が有る。

 『演芸はしょせん演芸であって、毎日見ているという
  わけにはいかない。野球は毎日見ても興奮するけれど、
  漫才は毎日見ていたら飽きられる。
  飽きられるのが俺たち芸人の宿命なのだ。
  だから飽きられないように、いつも新しいネタを
  作り続けなきゃいけない。
  案の定ネタを作らなかった連中はどんどん消えていった。
  紳介なんかはうまいこと司会に転じたけれど他の漫才師は
  売れたという事で喜んで、ネタを作らなくなって、
  それで終わってしまった。』

 『小手先の技術はものすごく進歩したけれど、
  人間そのものは何千年もちっとも変わっていない。
  何を旨いと感じ、何に感動し、何に怒り、何に泣くのか。
  そういう部分は、千年前の人間も今の人間もおそらく
  ほとんど変わりが無い。
  
  そう考えると、本物とツクリモノの違いは、その変わらない
  部分に訴えるのか、それともどんどん進歩する小手先の技術に
  アピールするのかの違いということになるのかもしれない。』

 『お笑いが世の主流になったお陰で、お笑いが万人受けする、
  それこそ女子供でも笑える程度のつまらないものになった。
  今やお湯を注いで3分で出来上がりの、ジャンクフードの
  お笑いが全盛だ。2分で客を笑わせるような芸ばっかり磨いている。
  磨くなんて上等なものではない。ほとんど宴会芸だ。

  若い芸人にしてみれば、そういう舞台しか無いのだ。
  利口な大人達が、そういう場を作って、何の事はない
  カップ麺方式でお笑い芸人を作っているわけだ。
  促成栽培で芸人を作って、安いギャラで使って、
  高いギャラを取るようになる前に、使い捨てるのが
  いちばん効率が良いに決まっている。
  そういう全体の流れの中で、お笑いというものから
  毒気と牙が抜かれて、単につまらなくなっただけでなくて、
  お笑いの意味そのものも失われつつあるということなのだ。』




科学技術が進んだ。それによって不便の無い暮らしがより普及した。
その反面で失われたものの一つが「本物」という概念。
使えればそれでいい。味や趣、風情なんかより実際の価値。
魅力や人に訴えかける響きなんかより金銭の問題。

いつからそうなったのかはわからんけど、価値がいつのまにか
全て金で決められてる気がする。

もっと「本物」を見て・聞いて・感じて見つめ直して欲しい。
それが何なのかは人によって違うけどたけしの言葉を借りるなら
人が『何を旨いと感じ、何に感動し、何に怒り、何に泣くのか。』
という部分。

「本物」についてもっともっと考えて行きたい。

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