ベソブログ

日本人として本当に知って欲しい事、考えて欲しい事を伝えるブログ 歴史・政治・思想・音楽・芸術・文学・教育・経済・・・ジャンルなんて関係なし。作家BESOが日々感じ、考える日本人に伝えたい事を伝える。やってるかやってないかはバイブス次第

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色即是空

「色即是空」。色すなわちこれ空。逆に「空即是色」もある。

仏教の大きな教えの一つ。仏教も歴史が長くいろんな解釈がされてるが有名な般若心経にでてくる考え方。

色とは物質の事で、目に見える物事。また欲望の事。

空とはからの状態。無であるという事。何も無いという事。

つまり色即是空は、見に見える全ての物事や欲望は何も無い無の状態である。という教え。すぐに「???」となる。それもそのはず。実際に目に見えて手に触れられて、匂いもする。それのどこが「無」なんやと??

そこには色という言葉が非常にナイスチョイスされてる考え方が説明としてある。「色」という文字通り目に見えるものには色が付いている。逆に目に見えないものには色が無い。じゃー空気や水はどうなるかというと色はないけど実際触れられるし感じる事が出来る。空気や水は限りなく空に近い存在。

科学で言うところの原子。全ての物質には原子がある。原子は小さすぎて目に見えない。これこそが「空」そのものと言ってもいい。空気も酸素や二酸化炭素や窒素などが集まってできてる。その元はO2やCO2などの元素が集まってる。元素の元になってるのが原子。科学が嫌いな人にはわかりにくい話。でも何かの「物」にはその構成してる元に元素があってその元素の元に原子があると言うこと。

原爆というものがある。これは原子を研究して原子の持つパワーを兵器にしたもの。神の兵器とも呼ばれていて、原子こそが「空」であり神であるという考えもある。ちなみに現代の科学でも原子に関しての研究はまだまだ発展途上。これがどんどん研究されていろいろな最新技術が生まれているのが現代。

つまり目に見える物質(色)の元は全て原子(空)であるというのがこの話の本筋。その原子が集まって形となり色を持つ。形を持つものは全ていずれ無くなる。諸行無常と言われいつか「色」褪せてしまう。

真理という言葉がある。本当の、永遠に変わらないであろう考え方の事。そういう意味で言うと諸行無常は真理。太陽が東から昇り西に沈む(北半球で)というのは真理ではない。なぜなら色のある太陽も色であっていずれ無くなるものであるからである。山も川も海も地球も星も宇宙ももちろん今生きている人間もいずれ無くなる。これが真理であると考えられてる。

しかし、空は無限であると言われている。なぜなら無いからである。限りが無いと書いて無限。無い状態のものに限りは無く、褪せる色も朽ちる形も無い。アインシュタインという原子の存在に限りなく近づいた人物がいた。その人物の肉体は当然「色」を持った物質で寿命とともにこの世を去ってしまった。しかし、その残した功績や考え方は今でも色褪せることなく今でも有る。もちろん忘れ去られてしまう可能性もあり何百年、何千年という時が経てば誰も知らないかもしれない。しかし、存在したという事実は消えない。たとえ誰も知らなくても。これこそが「空」であるという事。

人によって同じものが別の物に見える事がある。また言葉が違う国によっては言葉も変わる。これは物質をそういうものであると決めているからである。これは生活便利にするためのもので、現代の世の中では常識である。では、人によって見えるものと見えないものが出てきた場合はどうしよう。半分の人は見える。半分の人は見えない。本当は全く問題無い話である。

なぜなら目に見える全てのものは「色」のついた物質であり、無限では無いいずれ朽ち果てるものである。真理では無く、本当にあるものでなく今そこにあるだけのものである。言い換えると幻でもあるとも言われている。でも逆に当然今そこにあるものには意味があり、命があるからそこに形として存在出来ているから目に見える。命である原子がそこには宿りその形としての使命や生命を全うするために存在している。

つまり大事なのはそこにある物質に対して本質である中身を考える事が大事であるということ。いずれ朽ち果てるそれが何のために自分の人生に現れ、自分の人生を彩っているのかということ。逆に自分という人生の色を知り、本質である魂を見つめ直すために目に見える物や人から学ぶという事。

色即是空から考える物質世界と精神世界。ひいては西洋と東洋。裏と表でありどちらが善いでもなくどちらが悪いでもない。物、それは幻であり今そこにあるだでいずれ無くなるもの。それにしがみつくと無駄な支配欲や物欲が生まれ、本当の魂が求める何かを見失ってしまう。この世に善も悪も無く、ただ無が有を産み、有には無が宿っているという繰り返し。それにたどり着いた人だけが悟りを開けるという仏教の一つの教え。この考え方が全てでは無いし、合わせる必要も無い。ただ自分が幸せに生きるための一つの考え方やツールとして知っておいて欲しいだけ。。

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もうひとつの分数 Vol.2

物質世界と精神世界。簡単にこの話がわかれば苦労は無い。この感覚や真理を教えてくれてると言われてるのが仏教における「色即是空」。これに関しては「色即是空」ページを見て欲しい。(何度も言ってるけどBESOは無宗教)

物質世界にどっぷり浸かってしまっている人間はこれを忘れてしまっている。物質世界こそ全てだと思うとこれがなかなか抜け出せない。「欲」と呼ばれるものは物質に捉われてしまった場合に生まれる事が多い。物欲、性欲、独占欲、支配欲・・・

しかし、全てが自分と同じ「1」であるならこれらは全く無駄な無意味な物になる。悲劇の始まりは何かの「欲」であることが多い。金持ちは金で買えるものは何でもできるようになる。そうするといずれ飽きてくる。高いもの食べて飲み、高い家に住み、高い車に乗り、使用人や愛人を金で買う。しかし、そこに本当の自分である精神が本当に望んでいるのかという疑問が浮かんでくる。それよりも心から腹を割って本心を語れる人が横にいてくれることを望むようになる。

ホリエモンが一つのいい例かもしれない。IT業界の寵児と呼ばれ、巨額の富を得て欲しいと思うものは全て手に入れたかのように見える。しかし、(おそらくは有りもしない)脱税で捕まり財産も会社もスタッフも全てを失う。刑務所に入り残ったものは本当に支えてくれるスタッフと宇宙開発への情熱であったと。刑期を終えた時ホリエモンとしての過去は全て捨て去り、これからは堀江貴文として生きる。世に出してる本でこう語り、もちろんどこまで本心なのかとか、メルマガや本の収益でどんなけまた贅沢な生活をするかわからんけど少なくとも今までの生活が幻であったと言ってる気持ちに本心は感じた。

物質的な欲望の先には虚しさなく、あくまでも諸行無常である。本当の幸せや目的を財産を失って気づいた。故に精神が望む本当の幸せを早く見つけてそれに物質である体で体感することが大切である。

その精神が望む本当の幸せを感じる方法が「禅」や「瞑想」と言われている。瞑想の目的は内なる自分やインナーチャイルドと呼ばれる、自分の肉体ではなく魂に触れるために行うと言われている。つまり物質である肉体を忘れて精神である魂に目を向け耳を傾け意識を合わす。それに自分から歩み寄っていくのが瞑想であると。

そして辿り着く世界が「悟り」「涅槃(ねはん)」「ニルヴァーナ」とよばれている。涅槃にもこの体と魂という感覚があり、有余涅槃が体のある悟りで無余涅槃が体の無くなった死後の悟りと言われている。

この境地から見る世界は全てが繋がって一つとなっている「1」の精神世界。それがアカシックレコーズでもある。これにかつて肉体を持ちながらたどり着いたのが世界中で崇められているイエス・仏陀・釈迦・モーセ・などの神の申し子。この境地で神を声を人々に伝えたとされている。

宮本武蔵もその一人だと言われている。人を斬り続け、天下無双を目指し続けた結果辿りついたのはこれであった。それを記したのが「五輪書」。何かを極めるという事に精神を集中すると意識が悟りに触れ見えてくる世界が物質世界から精神世界になると。

スポーツ選手なんかにもある。スポーツや物事を極めようとした時に訪れる無我の境地というのもこれに近い。無我の境地ということは自分である我が無くなる世界ということ。スポーツの極限の場面やアーティストがライブなどで「何も覚えていない」「体が勝手に動いていた」というセリフをたまに聞く。

精神が肉体を自動操縦する。だから普段脳が考えている意識ではなく元々持っている無意識が体を動かす。この無意識こそが精神であり魂である。この魂が望むものを体感し、「1」として経験を記憶し改めて「1」である事を認識しさらに成長するために生まれてきた。これがなぜ人が生まれて死ぬのかという哲学的な概念の一つの真理では無いかと思う。

今一度自分の幸せを考えて欲しい。金持ちになりたい。いいマンションに住みたい。高級車に乗りたい。セレブになりゴージャスなドレスを着たい。物質的な体がその欲望を求めているのか、魂がそれを純粋に求めているのか見極めてほしい。自分にしか出来ない物を生み出したい。なぜか自分が心から望むものを追い求めたい。そういうものが飽きることの無い本当の幸せではないだろうか?

みんながいるから自分がいるとわかる。「1」が「1」であるために、もしくは「1」という事を認識するために「2、3、4・・・」がいる。そして分数としての役割と性質がある。これをどう物質世界である世の中に落とし込んでいくかが人間に与えられた使命であり楽しみでは無いかと思う。精神は「1」であり物質としては「2」である自分がどう分数として人生を送り元数「1」に戻るか楽しみで仕方ない。

もうひとつの分数

分数といえば1/2、1/3という数字を思い浮かべる。全部を1として二つに分けたうちの一つ。という数字。

今回はもうひとつの分数の考え方。従来の考え方にプラスアルファーで考えてみて欲しい。宇宙を理解するには数字を追及しろと言われている。それぐらい宇宙・地球・他の惑星は数字でバランスが取られている。そしてその元の元の元の基盤として考えられているのが

宇宙 = 「1」(全ては一つ)
宇宙 = α = Ω (始まり無き終わり無き宇宙)

という大定理。

宇宙という想像もできない大きな存在は一つであると言われている。その中で新たな惑星が生まれ古い惑星が死んでいく。それは地球上における生物のような感覚で何かが死に何かが生まれるのと同じである。

そしてこの話にはもう一つの柱となる考え方が必要になる。それが精神世界と物質世界。全ての物事には目に見える物質と目に見えない精神がある。人間でいう体と意識。意識は魂とも言われ目に見る事は基本的にできない。これは有限と無限の話にもつながる。形あるものは全て無くなる。「諸行無常」「栄枯盛衰」という言葉がそれである。生き物の体は物質なので無くなる。車や建物、自然物もそう。でも魂である精神は死んでも無くならない。仏教で言う「輪廻転生」などの考え方。しかしこの二つはコインの裏と表のような関係で切っても切れず物質が生まれるとそこに魂が宿ると言われている。生き物じゃない物に魂なんて無い。という人も確実にいるが、スポーツなどで大事に使われている道具には魂が宿っていると言われている。見えない魂なので普段意識しないと認識することはなかなか出来ない。

この「宇宙は一つである」という柱と「精神世界と物質世界」という柱のもとにもうひとつの分数を見てみる。

一つである宇宙は全てが繋がっていて「1」である。0でもなく2でもない「1」。しかしこの考え方は早速問題が起きる。宇宙が「1」であると宇宙の意識はどうやって認識するのだろう?人間に置き換えると周りに自分じゃない人間がいるから自分という「1」がいると認識できる。「BESO」という名前があり、違う名前の人が自分を「BESO」と呼んでくれる。しかし全てが一つであると自分を自分であると何も認めてくれない。

無人島でいくら自分が「BESO」だと叫んでも何も起きず何も始まらない。これは物質世界での記号である名前だからであり、お金をいくら持っていようとも一人だと食べ物も買えず、高級車もマンションも売ってくれる人もいない。文字通りただの紙屑。自分であるという事を認識するのは自分以外の物質が必要になる。しかしそこに生まれた物質に宿る精神は元々ひとつである「1」が別れた分数であるという考え方。

これが精神世界の話。宇宙にも精神宇宙と物質宇宙がある。「宇宙が一つである」というのは精神世界の意味での一つ。これを1つだと認識するために二つ目三つ目となる物質が生まれていく。これが惑星であり太陽であり星々である。でも精神世界の観点からいくとこれらも全てはもともと一つの意識(魂)が物質として二つ三つ・・・・と別れて行っているに過ぎない。つまりこの二つ目の「2」三つ目の「3」が「1」が別れて生まれた分数であると。

ここで大事になってくるのが何故「2」や「3」やそれ以上が生まれるかというポイントで、精神世界では「1」であるという事を認識するために生まれたという事。「BESO」であると認識するためであるという事になる。そしてその「2」や「3」はそれぞれいずれ無くなる物質に「1」の一部の精神が宿っていく。そこに「2」には「2」の「3」には「3」の役割と性質が生まれる。物質が違うから精神も少し違う面を見せる。ただ何度も言うように全ては一つの「1」という宇宙精神が分かれているだけで本質的にはすべて同じ精神(魂)である。

車には車の、木には木の、人には人の役割と性質があり、その全てに宿っている魂は元々「1」であるが、それが物質世界に目に見える形となるのは全て異なった行動や活動という物質世界での結果が表れているに過ぎない。

だから同じ人でも人それぞれに考え方が異なり、行動も違う。それぞれの分数としての役割がありそれぞれの分数としての物質世界での結果が表れる。

元々一つであった意識の「1」が分数として分かれてそれぞれの物質に宿ると、元々「1であった記憶や意識を忘れてしまう。自分が新たな1になったと勘違いしてしまう。それは自分で感じたり考える能力があればあるほど強くなる。それが人間である。人は産まれながらに自分であると教え込まれそれを物質世界で感じてしまうと物質世界で分かれている分かれているだけの分数を精神世界でも本当に別の数字である勘違いしてしまう。その結果争いが生まれる。

「袖振り合うも他生の縁」であり「人類みな兄弟」である。兄弟、家族という事を考えて見る。人間社会での最小単位の集団。ここには誰に言われたわけでなく助け合う精神がある。中には兄弟間・家族間で財産や権利を争う醜い話もある。しかし、根本は食べ物なり生きて行く事を分け合い助け合う集団である。

子供が幼い時は、親が自分の食べ物を減らしてでも子供に与える。それは子供がまだ一人で生きていけないからでありそこにあるのは無償の愛。子供が成長し親が老いてくると逆の現象が起きる。そこにあるのは感謝でありまた無償の愛である。本来これが人間の純粋な精神が物質世界に反映された自然な結果であると思う。

この家族が村になり、町になり、街になり、国家になり大きくなるにつれてこの意識が薄れていく。村人同士で奪い合い、国家同士で奪い合い、さらには殺し合う。精神世界ではみな元々「1」であるのに物質世界での「2」や「3」を勘違いから無理矢理「1」にしてしまっている。そして自分が裕福になるために物質世界の「2」や「3」から奪う。しかし精神世界では「1」か奪い合ってるに過ぎない。

物質世界の数学では1+1=2である。100+100=200である。これは疑いようも無い。しかし精神世界では1+1=1であり、100+100=1である。これはもともと分かれていた分数が元にどれだけ帰ろうと1であるという考え方。家族同士でいくらお金を奪い合ってもその家族のトータルの資産は一切変わらない。よその家族からどれだけ奪ってもその町の資産は変わらない。よその国からどれだけ奪っても地球の資産は変わらない。よその惑星からどれだけ奪っても宇宙の資産は変わらない。これが1+1=1の精神世界の数学。

どうしたらこんな考え方が物質世界で考えられるのか?まかり通るのかはVol.2にて。

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