ベソブログ

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悪と善

悪と善。

悪魔と天使。

地獄と天国。

前回の陰と陽陰と陽からの続き。

何を持って悪と言い、善と言うのか。もちろんいろんな人の立場や見方、もしくは一般に共通した見方から言える概念。

でも今回一番言いたいのは何が悪と善を生み出したのか?

全ての物事は陰と陽のバランスで成り立っているという話からすると、全ての物事は悪と善のバランスで成り立っているという事になるかもしれない。

しかし、そうではない。悪人がいるから善人がいる。悪い事が起きるから良い事が起きる。というのでは、戦争が起きるから幸せがある。という話になってしまう。


悪と善について深く考えた一人の人物がいた。

『その人物は哲学者と言われていたが、捉えにくい抽象的な事柄に付いて言葉で論理を展開する人ではなかった。彼は当時のキリスト教義をあの世的な教義だと批判し、この世における真理、善、道徳こそ大切だと強く訴えた。つまり今生きている人のための哲学を打ち出した。

ニヒリズムを批判するこの哲学者。ニヒルとは日本語で言う虚無つまり何も無いという意味でニヒリズムは虚無主義と日本語では訳される。絶対価値や真理など無いというのがニヒリズムであり彼はこれを否定していた。そして生きる人々は自分の人生に何か価値や真理を追い求める生き物だと言った。

それが21世紀の現代では金銭と利潤である。そして彼の生きた19世紀までの西欧での絶対価値と真理はキリスト教道徳であった。しかし、彼はキリスト教道徳はありもしない価値を信じ込ませたり、神やあの世といったあいまいなものを通じて道徳を押し求める宗教であると解釈した。そして彼は現代のこの金銭と利潤の追求もニヒリズムから逃げる為の新しいニヒリズムだと批判していた。

つまり彼が言いたかったのは人に押し付けられた道徳や、周りとの幸せを比べるために自分の価値を追求したりするのではなく、自分の生きている世の中で人間としての道徳をみつけていく事が大切だという事である。』


  引用:超訳 ニーチェの言葉  フリードリヒ・ニーチェ 書 白鳥春彦 訳

とかの有名な「ニーチェ」は語っている。

これが彼の根本的な考え方である彼は、悪と善がこのキリスト教の布教とともに大きく変わったと言っている。

そもそも、上流階級の貴族や王族が下々の下層者や奴隷に対して持つ嫌悪感が悪という概念の始まりとされていた。逆に善は生まれた身分や権力的な力を肯定する言葉として使われていた。

しかし、キリスト教の布教により他の人達への行いである「利他的な行い」が善であるとし、「利己的な行い」を悪とした。キリスト教を広めようとしたユダヤ人は当時のローマ人にルサンチマンを抱いていた。ルサンチマンとはフランス語で、力の無い者が有る者に対して持つ恨み妬みや憤りの事である。

支配者層であるローマ人の自分の好き勝手を肯定的に生きるローマ人を悪とし、支配されながらも健気に無欲に生きるユダヤ人を善としたのだ。そして強い者は悪く、弱い私は善いとした歪んだ道徳観念を展開して行った。これこそがニーチェの批判する欲望を否定し自分の生を楽しまない事を善しとするキリスト教義的道徳だった。


つまり、今世間で言われてる悪と善についての多くは当時の虐げられていたユダヤ人が持ってた歪んだ道徳心をキリスト教が広まる事によって広まった考え方であるとニーチェは考えた。


悪い事・善い事なんて言うのはその立場や考え方でガラッと変わる。だからそれを決めつける事はしない方がいいのである。夜が悪いのでもなく贅沢が悪いのでも無いように、全ては悪と善なんかには縛られない。ただ、そこにあるのは裏と表だけが存在し、陰と陽がバランスを取ってるだけなんじゃないだろうか。。。

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